- comme l'ambre -

アクセスありがとうございます。現在、更新は休止中です。(2019年1月)

"Nice Shoes"

 つい先日のこと、私は、電車を乗り換えるため、階段を昇っていた。

 ふと視線を、自分の足元から、前方に移してみると、一足の洒落たピンヒールが視界に飛び込んできた。ヒールの高さは、13~15センチ程。こんな駅の階段を上るには適さない、あまりに華奢なヒールにとても興味を惹かれた私は、一体どんな女性が履いているのだろう、と、更に視線を上げて、その後ろ姿を見てみることにした。すると、これまた、とても意外なことに、女性は、如何にも仕事着といった感じの黒いスーツスタイルをしていた。しかも、肩からは重そうな大きな皮革鞄を掛けている。年齢は、おそらく20代だろう。

 靴とスーツのあまりにアンバランスな組合せに、ついつい、その女性に目が留まってしまう私。

 あのスーツ姿だったら、普通は、もっと歩きやすい低いヒールを履くのが普通だし。

 反対に、ああいったタイプのヒールを履くなら、合わせるのはパーティードレス。で以て、鞄もあんな大きな皮革鞄じゃなくて、小さな小さなパーティーバッグを合わせる筈。

 本当に不思議、と後ろ姿を見つめていると、女性は、階段を上り切ったところで、私とは違う方面へと乗り換えて行ってしまった。

 私は電車を乗り換えた後も、その階段での出来事が気になって、黒いスーツ姿の若い女性が華美なヒールを履いていた理由を考えずにはいられなかった。

 電車に揺られながら、理由を頭の中で組み立てるうちに、妄想が次第にちょっとした「お話」へと膨らんでいった。

 これから、その頭の中で考えた「お話」を文字に起こしてみようと思う。別に面白い話でもないし落ちもない話なんだけど、ほんのちょっとした試みにね。

f:id:fab_1Ber:20160321214011p:plain

 

 『彼女のヒールの理由(わけ) 』

 朝7時半。

 毎日毎日、同じ時間。

 玄関の鏡の前で身だしなみのチェックをする彼女。

 襟を直して、スカートの裾を直して。脹脛をクルッと鏡の方に回転させて、着圧ストッキングが伝線してないことを確認。最後に、髪の毛先にクルクルと指を通すと、鏡に向かって一言。

 「おっけー」

 そう呟いてから、履きなれたハイヒールにつま先を滑り込ませた。

 「わっ…」

 突然、視界がグラついた。思わず足元に目をやると、折れたヒールが転がっていた。

 「…!…ふふっ、あははっ」

 ヒールが折れたというのに、彼女は笑っていた。

 「前にも同じことがあったっけ…」

 そう、その時、彼女は、少し昔のことを思い出していたのだ。

 

 ×年前。

 朝7時半。

 玄関で、ブラックスーツ姿の彼女は、ついさっきまで「ハイヒールだったもの」に片足を入れたまま、暫し呆然と立ち尽くしていた。彼女の足元には、折れたヒールが転がっていた。頭の中は、パニックだった。8時10分の電車に乗らなきゃ会社に間に合わないっていうのに、駅までの「足」がたった今無くなってしまったのだから。

 「どうしてくれるの!これじゃあ、今日、履いていく靴がないじゃない!」

 「明日まで!もう!なんであと1日くらい耐えられないわけ?」

 平日に履く仕事用の黒いハイヒールはこの一足だけ、流石に草臥れてきていた。実は、ハイヒールが傷み始めていることに薄々気が付いてはいたのだけれど、修理を先延ばしにしていたのだった。それに、まさかここまで悲惨な結末を迎えるなんてこと、思いもしなかったのだ。せいぜい靴底が擦り減りすぎたとか、大方そういうことだろうと思っていたからだ。それに結果的に、なんとか昨日までヒールは無事だったし、その調子であと一日くらい大丈夫だろう、そう思っていた。明日は休日、買い物ついでに、靴も修理してもらうつもりだった。

 「あれ、先週も同じこと思ってなかったっけ?ううん、今度は本当。本当に明日は直そうと思ってたんだから!」

 先輩からのアドバイスを今頃になって思い出す、「スーツに合うハイヒールは2足は用意しておきなさいね」と言ってくれたこと。

 「はぁ…」と大きな溜息をついて、震える手でヒールを拾い、元あった場所にくっつけてみる。

 「…嵌るわけがないよね…レゴじゃないんだし…」

 「何よ!」

 怒りにまかせて、荒っぽく靴箱を開けて、ざっと靴を見回した。彼女の靴箱には鮮やかな色のハイヒールばかりが並んでいた。

 いくら探してみても適当な靴がないことは分かり切っていたけれど、それでも彼女は、この中から代わりになる靴を見つけなければならなかった。

 「今更だけど、もう一足くらい黒いハイヒール、買っておけば良かった…」

 彼女の持っている靴は、全部で10足。たった今使えなくなったハイヒールが1足と、靴箱に9足。

 いつの頃からか、意地でもスニーカーは履かない主義で、例外的にあるのは、流行りのクロックスが1足だけ。

 あとは、ハイヒールしか持ってない。今着ているスーツにはとても合わなさそうなハイヒールが8足。

 その中でも目を惹くのは、一番の高級品のパーティー用の、ブラックとゴールドのバイカラー*1のヒール。どっからどう見ても日常使いではない。実際に、これを履いたのも、一度きりだった。

 でも例え履かなくたって、持っているだけで、眺めているだけで、胸が高鳴る、そんな特別な靴だった。

 それなのにどういう訳か、靴箱の中をぐるっと見回していた彼女の視線は、ヒールにロックオン。何を思ったのか、彼女にとって一番大切で、一番高級なヒールに手を伸ばしたのだった。

 ハイヒールが折れるという予想外の事件と、8時10分の電車に乗るタイムリミットが迫る中、焦りに焦った彼女は、普通だったら、あり得ない判断を下してしまうのだった。

 「バイカラーだけど正面から見るとブラックでいいかも」

 そう、一番スーツに色が合いそうだから、という理由で。

 「それに高かったし、見た目よりは丈夫かもしれない」と自分を納得させ、彼女は靴箱から、そのヒールをさっと取り出し、履いてしまったのだった。

 「ちょっと!こうして立っているだけでも、かなりの傾斜みたいだけど、本当に歩けるの?」と彼女の中に少し残っていた冷静な意識が最後の警告をした。

 けれど、彼女はそれを無視して、8時10分の電車に乗るため、A4サイズの重そうなショルダーバッグを肩に掛け、先を急いだ。

 家を出てもう一歩目から、妙な歩き方になっていた。

 それに、いつもならなんてことない駅の階段で、早々に、自分の判断を呪う羽目になった。

 「ショルダーバッグは重いし!歩きにくいし!こんなことならクロックスの方が良かったの…?かな…?」

 手摺りにつかまりながら、一歩一歩慎重に階段を昇る。

 通勤通学で混雑した朝の階段、15センチのヒールを履いてくる人なんて滅多にいない。

 でもそれを人に悟られまいと、背筋を伸ばして、できるだけ普段と変わらない様子で歩いた。

 まだ今日という日は始まったばかり、こんなことで挫けたくなかった、気持ちも足も。

 「私って、通勤でも15センチヒールを履きこなしちゃうタイプの人間だもんねー」と心の中で軽い調子で自分を励ましたけれど、もう通勤の数十分だけで足が痛くて痛くて泣きたくなった、正直言ってヘトヘトだった。

 それでも、どうにか午前は気合で乗り切った。

 誰にも何も言われませんように…、と祈って過ごした。確かに、みんな口には出して言ってこなかったけど、周りの女性社員達の視線が語っている気がした、「なんでそんな場違いなヒール履いてきてるわけ?見せびらかしたいの」って。

 視線が痛いし、足も痛い。

 お昼休みには靴擦れ用バンドエイドを探しにドラッグストアに駆け込んだ、バカみたいに、パーティー用のヒールを履いて。

 パウダールームの椅子に腰かけて、手順に沿って靴擦れ用バンドエイドを痛む箇所に張り付ける。

 「後は午後の数時間だけ。頑張ろう。」

 けれど、そんな気合も、風船がはじけたみたいに、一瞬でしぼんでしまった。

 靴を履きなおそうとして、ヒールの踵に手を添えた時、靴の変化に気が付いてしまったからだ。

 悲しいことに、ヒールの踵部分の皮が一部捲れてしまっていた。

 「階段を下りる時に擦っちゃったのかも…」

 気分は一気にどん底…。

 「値段に賭けてたのに、信じてたのに」

 あっけなく裏切られた気がして、わっと涙が出た。 

 「なんで大事なヒール、履いてきちゃったんだろう。」

 「なんで黒いハイヒール、もう一足買っておかなかったんだろう。」

 結局そのまま、お昼はパウダールームの椅子に座ったきりで時間が過ぎてしまった。お昼ご飯も食べられなかった。

 涙で崩れたメイクも直さずに、ズタズタな気分でデスクに戻る。あまりに酷い様子だったのか、すれ違う人にギョッとされながら。

 席に着くと、隣から先輩が何も言わずに、そっと来客用スリッパを足元に置いてくれた。

 それを見た途端、また涙が溢れちゃって、どうしようもなかった。その所為で、何も言わずに見守ってくれてた先輩に、反って迷惑をかけてしまって、自分のバカさ加減に飽きれたけど、なかなか涙は止まってくれなかった。

 

 「そんなことがあったっけ。ふふふ。」

 彼女は、足元に転がった折れたヒール見て、少し昔の「痛い」思い出を懐かしんでいた。

 「あの時は足にも靴にも悪いことしちゃったよね…」 と呟いて、靴箱のドアをさっと開けた。

 靴箱の中から、代わりの黒いハイヒールを取り出した。

 その隣には、懐かしのいつかのヒールも仕舞ってあった。勿論、今では踵部分の捲れもキレイに直してある。

彼女は、例のヒールに目をやると、修理した踵の辺りをポンポンと指で軽く叩き、「行ってきます」と声をかけて、靴箱のドアを閉めた。

―おしまいー

 

 実際、私が見かけた女性がどうだったのかは、全くわからないけどね。これは私が電車に揺られながら、勝手気儘に考えてみた「お話」。

*1:bicolor//2色の意。