始まりは、「セルゲイ・ポルーニン」

 

ポスターの君 ~セルゲイ・ポルーニン~

 この数週間が、これ程までにバレエ鑑賞三昧になったのは、間違いなく、あの時、あの映画館で、あのポスターを、ちらと見かけたことが切っ掛けだったに違いない。それは、『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣*1の公開を予告するポスターで、セルゲイ・ポルーニンという男性バレエダンサーが、ヌードカラーのタイツ一枚だけという出で立ちで、今、正に宙へと躍動する瞬間を切り取った写真であった。なんとも美しく力強いジャンプ姿を捉えた、そのポスターを一瞥しただけで、私はもうすっかりセルゲイ・ポルーニンというダンサーに、好奇心を抱いてしまった。しかしそれは、称賛の気持ちだけではなくて、不可解な気持ちも入り混じった興味だった。なぜなら、ポスターの中の彼の、露になった上半身の腹部辺りには、所狭しと大きなタトゥーが複数並んで掘られていたからだ。そのことが、どうも私には、バレエダンサーの身体としてはチグハグとしたものに思えてならなかったのだ。これは単なる私の固定観念、思い込みなのかもしれないが、バレエダンサーたる者、日焼け跡にさえ細心の注意を払って日常生活を送るものだとばかり思っていたからだ。それなのに、ましてやタトゥーだらけの身体とは!一体これはどうしたことだろうか。そんな疑問を抱き、暫しポスターの前から離れられずに、写真を隅々まで眺めていると、ポスターの片隅に<ヌレエフの再来>という最高の売り文句までレイアウトされているではないか。あのヌレエフのことなのか。セルゲイ・ポルーニンは知らなくても、「ヌレエフ」なら、私でも知っている。彼も又、ポスト・ヌレエフとして活躍を期待される天才ダンサーの一人なのか!と益々彼への関心は増すばかりだった。

本棚の守り神 ~ルドルフ・ヌレエフ

 ルドルフ・ヌレエフ。特段、バレエファンという訳でもない私にとって、この名前は、憧れの人の名というよりは、寧ろ、日常に馴染んだ名前の一つである。何しろ私は物心がついて以来、ほぼ毎日、ヌレエフの名前を見ない日はないからだ。私の部屋の中をぐるりと見回すと、本棚の最下段に一冊の古い大型本が、堂々と鎮座しているのが真っ先に目に入る。この本は、大型本なだけあって、それなりに重量もあり、本棚から引き出されることはめったにない。読まれることのない本は、もはや本と言うより、オブジェと化してしまっていて、それならばいっそ捨ててしまえばいいのだが、どういう訳だか大掃除や模様替え、また引っ越し等といった幾多の篩にかけられても、今の今まで捨てられることなく、私の本棚に収まり続けている。いつの頃からか、ずうっと私と共に過ごしてきた、本棚の最古参の一冊、それが『フォンティーンとヌレーエフ ―愛の名場面集―*2である。そうした訳で私は毎日、ヌレエフという名前を自然と目にしているのだ。

 その古株の大型本が、久しぶりに本としての役割を果たす時がとうとうやって来た。セルゲイ・ポルーニンのポスターの片隅に「ヌレエフ」の文字を見た後、家に帰るなり、本を開かずにはいられなくなったのだ。一体この本を開くのは何時ぶりのことなのだろう。表紙を開いてみると、中からはパラパラと、チラシとチケット、そして切抜きが挟み込まれていた。切抜きは、2002年のフィガロジャポン(ということは、本を開くのは2002年ぶりか?)。映画『エトワール*3日本公開に際して、マニュエル・ルグリニルス・タヴェルニエ監督にインタビューを行った記事であった。マニュエル・ルグリは、ヌレエフから飛び級でエトワールに指名された程の天才的ダンサーで、『エトワール』公開当時はマニュエル・ルグリ見たさに映画を楽しみにしていたのを思い出す。おそらく、ヌレエフとルグリの師弟関係に関連して、本に切抜きを挟んでおいたのだろう。そして、チラシとチケットはと言うと、こちらはかなり古いもので、ヌレエフが芸術監督としてパリ・オペラ座バレエ団を率いて来日した際のものだった。出演ダンサー一覧をよく見てみると、若き日のマニュエル・ルグリも含まれていた。意外にも、私は昔からルグリを見たことがあったようだ。

双眼に映る大鷲 ~マニュエル・ルグリ~

 その日、私は劇場の後部座席に座っていた。セルゲイ・ポルーニンのポスターを見る以前には、まさかこんな展開になるとは予想だにしなかったが、なんと私は『ルグリ・ガラ ~運命のバレエダンサー~*4の公演が始まるのを今か今かと待っていた。

 ルグリの2002年のインタビュー記事を懐かしく読むうちに、彼の近況が気になり調べてみたところ、またなんともタイミングのいいことに、この夏、来日公演を行うことを偶然知るに至ったのだ。これも何かの巡り合わせに違いない。私は、まるでセルゲイ・ポルーニンのポスターに導かれるようにして、『ルグリ・ガラ』公演会場に足を運ぶことになったのだった。

 私の座席はかなり後方だったため、どこまで見えるか多少の不安もあったのだが、そこは万事抜かりなく、私は秘密道具を持参していた。軽めのオペラグラス、というより、ちょっとした近くの鳥くらいなら見れそうな程度の、それなりに本気仕様の双眼鏡だ。でも、これがドンピシャだった。『ルグリ・ガラ』は、群舞よりもソロやデュエットが多い。だから、1人や2人のダンサーなら、双眼鏡の丸い視界の中に、上手い具合にダンサーの姿がすっぽり収まるのである(もしも群舞ばかりだったなら、目で追うべきダンサーが多すぎて双眼鏡鑑賞には不向きだったろう)。その視界の良好さ加減と言ったら、もう。ダンサーの筋肉の動き、呼吸や鼓動まで、クリアに感じることができる程で、自分が座っている席が後部座席だということを完全に忘れ去ってしまうくらいの特等席気分だった。

 が、しかし、私が目撃したのは、本当にダンサーだけだったのだろうか。先程、鳥でも見れそうなくらいの、と言ったが、もしかしたら私は本当に鳥を見ていたのかもしれない。これは心の中でだけ思っていたことなのだが、いつもマニュエル・ルグリの踊る姿を見る時、実は私は大鷲のことを思い浮かべているのだ。ルグリの踊りで、私が一番好きなところと言えば、彼のあの長い腕の動きを見ることだ。ルグリの長い腕から繰り出される数々の仕草の美しさと言ったら、もう比類ない程に素晴らしいからだ。ルグリが一たび腕を動かし、指先が空を切ると、肩から指先にかけて筋肉が柔らかく波打つように動き、それはまるで背中から大きな羽が生えているかのように、私には見えてしまうのだ。この羽のような腕にこそ、ルグリの優雅で力強いダンスの秘密があるのではないかとさえ、私は思ってしまう。

 瞬間("Moment")、ピアノの音色に耳を傾けながら、双眼鏡を覗き込むと、丸い視界の中で、一羽の大鷲が雄大に飛び回るかの如く、ルグリが舞い踊っていた。それは、風格漂う、大鷲の王然とした感動的な踊りだった。

 『ルグリ・ガラ』に登場した若手ダンサー達は皆、途轍もなく素晴らしかった。が、ルグリもそれ以上に凄かった。ルグリの今の年齢だからこそ、という素晴らしいバレエを見せてもらった。

再来 ~セルゲイ・ポルーニン~

 と、また別の日のこと。私は映画館にいた。勿論、<ヌレエフの再来>と称されるセルゲイ・ポルーニンのことを見る為だ。

 『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』は、セルゲイ・ポルーニンの現在までのバレエダンサー人生を追うドキュメンタリー映画である。

 ウクライナで生まれたセルゲイは、ほんの小さな子供のうちから、バレエダンサーとして頭角を表し始めると、母の勧めもあって、母国を離れ、イギリス、ロイヤルバレエ団に入学する。セルゲイは、家族の期待に応えようと、同級生の何倍もの練習に明け暮れる毎日を送り、また家族の方もセルゲイの為にヨーロッパ各地で必死に働く日々だった。セルゲイは自分が踊り続ければ家族は一つに纏まると信じて、心血をバレエに注いだが、セルゲイの思いに反して、家族はバラバラに散り、両親は離婚までしてしまった。その事実がティーンエージャーの少年の心をどれ程傷つけたことか。それは、若くしてプリンシパルとして成功を手中に収めながらも、一方では荒れた私生活を送り続けゴシップを飾るようになってしまった様を見れば、彼の心がバランスを失っていたことは想像に難くないだろう。

 だが、セルゲイは、とても運のいいことに、友人には恵まれていたようだ。例えば映画『エトワール』では、バレエ学校の生徒達や卒業生達が口々に、同じバレエ学校に所属するダンサー同士で友情を育むことの難しさを語っていた。同級生とは言え、本来彼らは同じ役を奪い合うライバルでもあるからだ。一方、セルゲイの場合、学生時代から彼のことを心から心配する友人に囲まれているようだった。ライバルであるにも拘らず、なぜ周囲はセルゲイを認め、優しくできたのか。周りの彼らだって、セルゲイと同じように様々な悩みを持ち、葛藤し、厳しいバレエ学校生活に疲れてもいただろう。映画では、バレエ学校時代の授業風景の様子も流されるが、素人目にも、セルゲイは他の生徒達より一歩も二歩も進んでいるようだった。もしかしたら、同級生達にとって、もはやセルゲイは天才的過ぎて、ライバルですらなかったのだろうか。だから同じ学校にいながら、友情が育まれたという一面もあったのかもしれない。

 セルゲイは、突如ロイヤルバレエ団を退団すると、活躍の場をロシアへと移す。家族間の問題を消化できないまま、その上、心も荒ぶり続けたまま、そんな状態のセルゲイの見せる踊りは、確かに技術は一級品なのかもしれないが、私は見ているのが少し辛い気がした。セルゲイが、痩せ過ぎにも思える身体を、更に痛めつけるかの如く踊っているように見えたからだ。

 しかし、悩み続けたセルゲイにも明るい兆しが訪れる。セルゲイが「引退する」と決意を固めて挑んだ渾身のソロ作品Take Me to Churchが、彼のターニングポイントとなるからだ。このソロはもう手放しで素晴らしい出来だった。技術だけではない、本物のダンサーとしての真髄、心を垣間見ることができたような気さえした。セルゲイ自身もTake Me to Churchの出来にはかなりの手応えを感じたらしく、引退は暫しお預けになったようだ。ファンには朗報だろう。いや、一番喜んだのは両親かもしれない。Take Me to Churchの成功はセルゲイの心にも良い変化をもたらしたらしく、セルゲイは漸く両親を受け入れ始めたのだ。劇場公演に初めて招かれた両親の嬉しそうな顔が、強く印象に残った。

 やっと自分自身の心の痛みに向き合えたセルゲイは、これから益々、バレエダンサーとして、表現者として、飛躍するのではないだろうか。心機一転、長い髪をバッサリと刈って、丸刈りになったセルゲイの顔付きが、心なしか、少し柔和になったようだった。


Sergei Polunin, "Take Me to Church" by Hozier, Directed by David LaChapelle

夢をチキンウィングに乗せて 

 またも私はバレエに呼び寄せられて、映画館に来ていた。今度は、アニメーション映画でバレエを見ようという訳だ。映画のタイトルは、『フェリシーと不思議なトウシューズ*5

 時は19世紀、オペラ座のエトワールを夢見る、孤児の少女フェリシーが、幼馴染で発明家(の卵)のヴィクター*6と共に孤児院を抜け出し、パリ・オペラ座の舞台に立つことを目指す物語だ。キャラクターデザインも可愛いらしく、その上、揃いも揃って濃いキャラクターばかりで、とても楽しい時間だった。

 フェリシーの声には、エル・ファニング。そして、フェリシーに個人的にバレエの指導をする、嘗ての名バレリーナで、今は足を負傷した掃除婦というオデット役の声を演じるのは、歌手のカーリー・レイ・ジェプセンだ。私は、カーリー・レイ・ジェプセンの演技を見るのは、(正しくは、「聞く」だが)、海外ドラマ『キャッスル ~ミステリー作家は事件がお好き*7シーズン7以来だった。しかも『キャッスル』の場合、彼女はカメオ出演だったので、今回の映画が、彼女の演技を見る(聞く)初めての作品だ、と言ってもいいかもしれない。大ヒット曲Call Me Maybeの影響もあって、カーリー・レイ・ジェプセンと言えば、私にとっては、あの明るい笑顔ばかりが印象強く、オデットのような影のある役どころに取り組むというのは少し意外だった。が、思った以上にカーリーの声は、オデットにぴったりと嵌っていた。カーリーの声があまりに良かったので、私はこの映画に出てきたキャラクターの中でオデットが一番好きになったぐらいだ。それに、足を怪我して今はもう踊れない嘗てのプリマが、「オデット」という名前だというのがまたいいじゃないか。バレエのお話にお誂え向きの名前だ。

 また、私は、ルトー*8というキャラクターも、すっかり気に入ってしまった。物語の終盤で、ルトーとフェリシーがバイクで2人乗りをすることになる一連のシーンには、思わずホロリとさせられてしまったからだ。

 そして最強に強烈なキャラクターと言えば、意地悪母娘のル・オー*9カミーユ*10、特にル・オーだろう。カミーユとフェリシーの間にはバレエ学校入学にあたって浅からぬ因縁があり、ル・オーはフェリシーの存在を疎ましく思っていた。そして寄りにもよってフェリシーとカミーユが或る役を巡って最終選考まで争うことになってしまい、最後の最後に役を射止めることになるのは、なんとフェリシーだった。娘カミーユ可愛さに正気を失ったル・オーは、なんとハンマーでフェリシーに殴りかかるという暴挙に出る。アニメーション映画にしては、なかなかのバイオレンスでホラーな展開に、かなり衝撃を受けた。

 そうそう、もう一人忘れてはならないキャラクターと言えば、フェリシーを巡って、ヴィクターと争うことになるロシアのバレエ王子ルドルフ*11だ。これがなんとも可笑しな曲者で、本人は至って真面目に(?)ロマンチックで優雅なつもりなのだろうが、それが滑稽でならないのだ。フェリシーを屋根の上でのダンスに誘った挙句フェリシーを危険な目に合わせたり。建設途中のエッフェル塔に登りながら難解なポエムを詠んだり。ヴィクターを物乞いと間違えて戦いを挑んだり。と、いちいちやることが芝居がかって仰々しく、ヘンテコで面白い奴だった。フェリシーが「彼にこんな風に見つめられたの」とルドルフの顔マネをする場面などは、思わず噴き出さずにはいられなかった。

 あっという間に上映時間の90分弱が過ぎ、最後はフェリシーの晴れの舞台「くるみ割り人形」(らしき舞台)を見ながら物語は幕を閉じる。…のだが、その最後のシーンが私にとっては大問題だった。大事な舞台に立つにあたって、なんとフェリシーが、オデットから譲り受けた赤いトウシューズを履くからだ。全くなぜ赤なんだ。赤いトウシューズを履いて舞台に向かうフェリシーを見るや否や、私は心の中で「履いちゃだめ」と叫んでいた。 

赤い靴 ~モイラ・シアラー~

 その時、私は、プリマドンナモイラ・シアラーが出演したことで有名なバレエ映画『赤い靴*12のことを頭に連想していた。プリマを夢見る少女が一たび赤い靴を履くと、赤い靴が意志を持ったかのように踊り続け、少女の足をなかなか解放してはくれない、という過酷な運命の、あのお話だ。だから、私はフェリシーが赤い靴を履くラストシーンを見るなり、フェリシーにも過酷な運命が待ち構えてやしないか、と少し大袈裟な連想をして震えてしまったのだった。

 

 そんな連想までするとは、私は、この夏の間に、バレエの世界観に相当どっぷりと浸かってしまったらしい。

 思えば、他にも、『アンナ・パブロワ*13のサントラを聴いてみたり。『ホワイトナイツ/百夜*14を見たり。ホワイトナイツついでに、ミハイル・バリシニコフがゲスト出演した海外ドラマ『SATC』も見てみたり…。と、すっかりバレエ三昧だった。それもこれも全ては、映画館で偶々セルゲイ・ポルーニンのポスターを見かけたことが始まりだった。ポスターのお陰で、私にとって、この夏は、バレエが最も熱かった。

 

 ああ、そう言えば。

 『回転木馬*15を見るのを忘れていたなぁ…。『回転木馬』と言えば、同じくジャック・ダンボワーズ出演の『略奪された7人の花嫁*16も見るべきだしなあ。

 それに。

 バレエ映画と言ったら、リトル・ダンサー*17ってのもあったっけ。

 考えてみると、バレエ映画って、まだまだ意外と沢山あるものだなあ。

 あれ?

 私って、自分で思ってたより、バレエが意外と好きだったのかな。

*1:原題は、Dancer

*2:アレキサンダー・ブランド著、ケイコ・キーン訳、文化出版局、1982年フォンティーンとヌレーエフ―愛の名場面集 (1982年) 

*3:2001年、原題はTout près des étoiles: Les danseurs de l'Opéra de Paris

*4:LEGRIS GALA  un destin... La Dance

*5:原題は、Ballerina

*6:声は、デイン・デハーン

*7:原題は、Castle

*8:声は、メル・ブルックス

*9:声は、ジュリー・カナー

*10:声は、マディー・ジーグラー

*11:声は、Tamir Kapelian

*12:1948年、原題はThe Red Shoes

*13:1983年、原題はAnna Pavlova

*14:1985年、原題はWhite Nights

*15:1956年、原題はCarousel

*16:1954年、原題はSeven Brides for Seven Brothers

*17:2000年、原題はBilly Elliot