- comme l'ambre -

2015年12月1日開設

歌うフラミンゴ ―METライブビューイング『ヴェルディ≪椿姫≫』を見て―

 今週は何を見に行こうかな、とスマホで映画館の上映スケジュールを検索していた私は、めぼしい映画がなかなか見つからずに、あれでもない、これでもないと、忙しなく指でスワイプを繰り返していた。そんな状態を数分程続けていると、漸く、或るタイトルを目にしたところで、私の指の動きが止まった。そこには、METライブビューイング『ヴェルディ≪椿姫≫』と表示されていた。歌劇『椿姫』とは、19世紀に小デュマ*1が書いたレアリスム小説*2・脚本を元にした作品だが、私はその原作を読んだこともなければ、確かオペラ自体も見たことがなかった筈だ。それなのにどういう訳だか、私の目はタイトルに釘付けになってしまった。もしかして、自分自身すっかり忘れているだけで、実は『椿姫』という作品に何か特別な思い入れがあったんだろうか?と、ふと思い立って、私は自室のCDラックに向かい合った。棚から、数枚のオペラ・アリア集を取り出して、収録曲を一つずつ確認してみると、キリ・テ・カナワのベスト集の5曲目に、「さようなら、過ぎ去った日々よ ~歌劇『椿姫』第3幕より*3というアリアが収録されているのを見つけた。しかし曲名を見たところで、それが一体どんな曲だったかさっぱり見当も付かない私は、早速ディスクを取り出して聴いてみることにした。そうして暫くの間、曲に耳を傾けていると、私は突然、不思議な懐かしさに襲われ、頭の中に30年以上も昔の或る日の思い出が蘇ってきたのだった。

 

 それは確か、秋頃の出来事だっただろうか…。その日もまた私は、いつものように、母に連れられて、映画館へと向かっていた。

 「あかあさん、きょうは、なんのえいがをみるの?じーん・けりーでてる?」

 当時リバイバル上映でミュージカル黄金期の映画を何本か見て以来、ミュージカル作品が大のお気に入りだった私は、映画館に着くまでの間、「あすてあ?さっちも?じゅでぃ・がーらんど?」と覚えたてのミュージカルスター達の名前を出して、今日見る映画に誰が出演しているのか、母を追及していた。そんな私に対して、母は「どうかしらねえ?今日は誰が出てるかしら?楽しみねえ?」と何度も私の質問をかわす。こんな会話を繰り返しながら、映画館へと到着すると、大きな劇場内に人はまばらで、ガランとしていた。人が少ない映画館はやたらと静かで、子供の私には妙に怖く感じられた。私の心の中に浮かんだ、このちょっとした恐怖心は、これから始まる映画への期待感よりも、むしろ緊張感を抱かせた。母がわざわざ怖い作品を選んで私に見せる筈もないのに、私は「こわいおはなしなのかな」と少し心配な気持ちになりながら、上映が開始するのを固唾を飲んで待っていた。いよいよ映画が始まると、すぐに陽気なミュージカル映画ではないことが分かった。スクリーンに映る映像は、母が好きなエドゥアール・マネの絵画(例えば、『テュイルリーの音楽会*4』のようなイメージ。)のように色とりどりでキレイだったが、終始、死の存在を感じてしまうような作品でもあった。それは、主人公の美しい女性が髪もドレスも華やかに着飾っているにも拘らず、その顔色は今にも死にそうに青白く見え、私は落ち着かない気持ちになってしまったからだった。しかし、もう一人の登場人物が私の不安をほんのちょっぴりだけ和らげてくれた。その人物とは、母に教えてもらって覚えた歌手の「ふらみんごさん」だった。でも、その「ふらみんごさん」もいつもよりも険しい顔付きに見えて、私に十分な安心感を与えるまでには至らなかった。劇中で「ふらみんごさん」が歌う場面や、まるで絵画のように美しい映像の数々には目を奪われたが、まだ完全に字幕を頼りに出来なかった子供の私には、難しい映画だった。

 

 キリ・テ・カナワが歌うアリアを聴いてみたことで、思いがけず、このような古い記憶が呼び起こされた私は、これが一体何の映画を見に行った時の思い出なのか、調べてみることにした。すると、日本では1985年に公開された『トラヴィアータ1985・椿姫*5であることが判った。「椿姫」ことヴィオレッタ・ヴァレリーを演じるのは、テレサ・ストラータス。そして、相手役のアルフレード・ジェルモンを演じるのが、あの三大テノールのうちの一人、プラシド・ドミンゴだ。そう、私の記憶の中の「ふらみんごさん」とはプラシド・ドミンゴのことだったのだ。子供の頃の私は、プラシド・ドミンゴという名前を正確に言えなくて、ついつい「ふらみんごさん」と言い間違えていたのだ。

 私の中に、このような『椿姫』に纏わる大切な思い出があったなんて!、、偶然にも、プルースト効果の役割を果たしてくれたキリ・テ・カナワのCD*6には、昔のことを思い起こさせてくれてありがとう、と言いたくなってしまう。何しろ、子供の頃にたった一度だけ見た映画のことなのだから。

 こうした訳で、自分が『椿姫』に惹かれた理由がはっきり分かるとMETライブビューイング『ヴェルディ≪椿姫≫』に対して一層、興味が湧いてきてしまった。そこで私は、子供の時に感じた印象が果たして合っているのかどうか、答え合わせをしてみたい、、そんな思いに駆られて、このライブビューイングを見てみることに決めたのだった。

 

 今回の舞台でヴィオレッタを演じるのは、ソニア・ヨンチェヴァアルフレードを演じるのは、マイケル・ファビアーノだ。

 物語の舞台はパリ、半社交界で「椿姫」として名を馳せていたヴィオレッタ・ヴァレリーは、夜毎パーティーで、恋愛に興じていた。病に侵されていたヴィオレッタにとって、恋愛とは、慰み、遊び、虚構のもので、決して本気になる類のものではなかったのだ。しかし、そんなヴィオレッタの前に、一途に愛の告白をするアルフレード・ジェルモンという青年が現れ、ヴィオレッタの心は大きく揺れ動き始める。初めこそヴィオレッタは、アルフレードの本気の告白を笑い飛ばし、軽くあしらっていたものの、その実、心は自然とアルフレードに引き寄せられ、ヴィオレッタは本物の愛に目覚めてしまうのだった。晴れて恋人同士になったヴィオレッタとアルフレードは、田舎で新生活を始めるのだが、二人の間に起こった経済的な問題をきっかけにして、次第に幸せにヒビが入り始める。そして、そんな折、アルフレード父親ジョルジョ・ジェルモン*7が、ヴィオレッタの元を訪れ、アルフレードと別れて欲しいと懇願するのだった。ジョルジョは、アルフレードがよくない噂のあるヴィオレッタと恋仲であり続ければ、二人の関係はスキャンダラスに世間へと知れ渡るところとなり、結婚を控えた娘にまで悪影響を及ぼすと考えたからだった。ヴィオレッタは、そうしたジョルジョの懸念に理解を示し、身を切られる思いでアルフレードと別れることを決意する。しかし、そんな事情を知る由もないアルフレードの方は、ヴィオレッタの突然の心変わりを恨み、逆上してしまう。そうしている間にも、刻々と迫りくるヴィオレッタの最期の時、果たしてアルフレードの誤解は解けるのだろうか…。

 

 先ず、このライブビューイングを見て私が驚いたのは、本編以外の特典映像が満載だということだ。舞台中継のみを見るのかと思いきや、なんと会場内や舞台裏の様子まで見ることができてしまうのだ。また更に、幕間には、キャストのインタビューが行われるのだが、このインタビュー映像は事前収録したものではなく、本当に幕間の時間を使ってインタビューをしたものだった。ほんの寸前まで舞台を務めていたキャスト達の息がまだ整わないうちに、ライブビューイング用のインタビューを行うなんて、なかなか臨場感があって面白い試みだと思った。これだけサービス満点だと、実際にメトロポリタン歌劇場で生で観劇した人でさえも、インタビューや舞台裏の映像見たさに、わざわざライブビューイングを見る場合もあるのではないか、と思ったくらいだ。こうした特典を見れただけでも、今回、歌劇『椿姫』を見た甲斐があったというものだ。

 そして、いざ本編が始まると、私は真っ先にその舞台セットにビックリしてしまった。それは、私がイメージする『椿姫』の世界とあまりにかけ離れていたからだ。私にとって『椿姫』と言えば、やはり『トラヴィアータ1985・椿姫』が基本イメージだ。当然、装飾は豪華絢爛なものを期待していたのだが、それがどうだろう、スクリーンに映っていたのは、真っ白な円形の空間に大きな時計とソファーだけ、というなんとも簡素なものだった。『トラヴィアータ1985・椿姫』が印象派の絵画のようだとしたら、METの舞台はモダンアートのようだった。そもそも映画と舞台で、舞台装置が違うことは百も承知なのだが、それにしても、ここまで違うのか!と驚愕してしまった。

 そのシンプルな空間の中にキャスト達が次々と入場してくると、彼らの纏う衣装も、これまた私が期待していたような華美なスタイルとは程遠いものだった。一体どうしてここまで徹底的にシンプルを貫いた演出をするのだろうか?と疑問に思って見ていると、幕間に行われたインタビューが私の疑問を解消してくれた。アルフレード役のマイケル・ファビアーノ氏が説明するところに依ると、元々『椿姫』という演目は、舞台装飾が豪奢になり過ぎたり、衣装が凝り過ぎたりと、演出過多に傾き易いのだと言う。すると、物語のテーマがつい散漫になってしまう。そうした問題点をなくし、エッセンスだけを観客に届けたいというのが、このシンプルな演出*8の狙いであるらしいのだ。

 私がこのライブビューイングを見ることに決めた理由が、『椿姫』が常に死と隣り合わせの作品だったという子供の頃に抱いた印象が合っていたのかを確かめてみたいという思いからだったことは先に述べた通りだが、私は本編が始まった瞬間に、舞台右手に時計が配置されているのを見て、もうその時点で答え合わせができてしまった気がしていた。つまり、時計は命の期限を示しているのだろう、ということがすぐに予想できたのだ。これこそが、マイケル・ファビアーノ氏が語った通り、敢えてシンプルな手法をとることで、演出意図や作品のエッセンスが明確に観客に伝わった、ということなのだろう。

 勿論、舞台セット以外にも興味深い演出が沢山あった。中でも私が気になったのは、一連のパーティーの場面でのことだ。パーティーの招待客達が男女問わず、全員が黒いスーツを着用していたのだが、これもシンプルを徹底したからなのだろうか。また、招待客達が被っていた仮面も、男性にも女性にも見える気がして、怪しげなデザインだった。更に、大勢の招待客のうち、或る一人の逞しい男性がヴィオレッタになり切って科を作る場面もとても変わっていて、私に強烈な印象を与えた。

 そうしたパーティーの場面の中で、私が一番好きだった演出は、ヴィオレッタの主治医が登場した途端に、パーティーの雰囲気が一変してしまうところだ。主治医の厳格な態度に、招待客達は気圧され、一歩ずつ一歩ずつ後退りをする。真っ白な円形の空間をぎっしりと埋め尽くしていた黒いスーツの招待客達が、一人減り二人減り…、ゆっくり時間をかけて最後の一人が舞台を去ると、再び舞台は真っ白な空間になっている。これは舞台ならではの演出だろう。空間が黒から白へと移り変わる様が、視覚的に非常に面白かった。

 そして、肝心の音楽の面だが、特に第1幕の曲がよく聴いたことのあるお馴染みのアリアばかりだったことに驚いた。この曲も、あの曲も全部『椿姫』の曲だったのかと、今まで『椿姫』とは知らずに聴いていた曲ばかりだった。こうも有名曲揃いとは、『椿姫』という作品は、もしかしたらオペラ初心者にも見易い作品なのかもしれない。

 私は、今回の舞台に出演していた歌手を誰一人として知らなかったが、キャストは皆素晴らしく、とても楽しくオペラに親しむことができた。

 私にとっては予想外のシンプル演出だったことも、爽快な裏切りで、面白かった。

 (METオペラのホームページを参照すると、日によっては、プラシド・ドミンゴ氏がジョルジョ・ジェルモンを演じることがあったようだ。どんな風にジョルジョを演じたのだろう?)

 

 こうも歌劇『椿姫』を楽しめたとなると、私はやはり原作も気になってきてしまった。そこで私は、いくつか発売されている翻訳本のうち角川文庫版の『椿姫』*9を手に取ってみることにした。

 すると原作では、ヴィオレッタはマルグリット・ゴーティエアルフレードアルマン・デュヴァルという名前で登場していた。そして物語は、アルマン自身が、マルグリットとの出会いから別れまでを、作者に語り聞かせるという形式で進んで行く。恐らく本文の7割強がアルマンによる回想録だ。

 読み終えてみて強く印象に残ったのは、恋愛が引き起こす負の力の凄まじさだ。今も昔も変わらず、人間を翻弄する恋愛の力に、私は圧倒されてしまった。

 具体的に言うと、特に、マルグリットの心変わりを恨んで、頭に血の上った状態になってしまったアルマンの下衆さ加減が本当に酷いのだ。METオペラ版でも、父ジョルジョに懇願されヴィオレッタが別れを決意したとは露も知らないアルフレードは、ヴィオレッタの身体中に札束を浴びせかけるなど度を越した振る舞いをしていたが、原作でアルマンはもっと酷い陰湿な仕打ちを繰り返すのだ。

 アルマンは、先ず初めにマルグリットの友人女性オランプに狙いを定めて、オランプの愛人になろうと企み、そうして、まんまとオランプと恋仲になると、二人してマルグリットの悪評を撒き散らすのだった。更に、それでも飽き足らないアルマンは、マルグリットに匿名で嫌がらせの手紙を送りつけるという所業までするのだ。まあ、よくもここまで!という下劣な行為の数々で、アルマンは思い付く限りの嫌がらせをし尽くしたと言えるだろう。いくらマルグリットに振られたとは言え、彼女が病人であることはアルマン自身が一番よく分かっている筈なのに、愛した人の心変わりを責める為なら病気だろうと何だろうと関係ないとばかりに、ここまでの復讐をしてしまうのだ。如何に恋愛の負の力に飲み込まれた人間のすることが恐ろしいか、まざまざと痛感してしまう。

 一方のマルグリットは、アルマンから酷い仕打ちをされても、最後の最期まで気品を失わない。マルグリットは、クルティザーヌ*10と世間から好奇の目で見られても、愛するアルマンに嫌がらせをされても、毅然とした女性であり続けたのだ。小デュマが、ここまでマルグリットを気高い女性として描いたのは、マルグリットのモデルとされるマリー・デュプレシーを小デュマが崇拝し、ずっと想い続けていたからだろうか。

 因みに、アルマンのモデルは小デュマであるらしく、彼自身も実際に、マリー・デュプレシーとの大恋愛の後、彼女を23歳という若さで亡くしており、深い悲しみにくれたようだ。角川文庫版『椿姫』には、小デュマとマリー・デュプレシーが遣り取りした手紙文も掲載されているのだが、これがアルマンとマルグリットの遣り取りを彷彿させるような内容で非常に興味深かった。

 ここで、翻訳者の方による解説部分で、特に私が面白く感じたところがあったので、ほんの一部だけだが紹介したいと思う。

 それは、父親の懇願で愛し合っている二人が別れる、という設定に関してのことだ。『椿姫』は、小デュマの実体験が相当な割合で生かされた作品だが、この設定の部分だけは実体験とはかなり違っている筈だと翻訳者の方は指摘している。なぜなら、当時、大デュマ*11には、沢山の愛人と子供がいて、世間体を気にして、息子とクルティザーヌの仲を裂こうと考えるような人間ではなかったらしいのだ。それどころか、むしろ大デュマなら、自分が囲うクルティザーヌを我が息子にもお裾分けしてやろうというタイプの人間だったんだとか。ではなぜ小デュマは、アルマンに厳格な家庭を設定したのか。それは、この作品が通称アベ・プレヴォ*12マノン・レスコー*13を底本にしているからに他ならない。『マノン・レスコー』にも『椿姫』と同様の場面があり、恋する二人は厳格な父親によって別れざるを得なくなってしまうという展開を辿るのだ。

 原作を読み通してみると、この設定部分に限らず、『椿姫』が多くの部分で『マノン・レスコー』の影響を受けていることがよく分かる。『椿姫』という作品が、原作も歌劇も面白い作品として大成功を収めたのは、小デュマの実体験と『マノン・レスコー』の要素が絶妙なバランスで織り交ざっているからなのかもしれない。

 それに、いくらレアリスム文学とは言え、もしも、あの場面で大デュマのようなタイプの父親が登場してきて、、二人の恋の障害となるどころか「遠慮せず付き合い給え」などと応援したならば、、『椿姫』の世界観は、一気に形無しとなり、どっちらけだろう。そう考えると、やはり『マノン・レスコー』は、『椿姫』にとって、欠くことができない物語の重要な要素という気がしてしまう。

 こうした『椿姫』と『マノン・レスコー』の切っても切り離せない関係が、私はとても面白いと思ったので、ほんの一部紹介してみたが、これ以外にも作品についての詳細な裏話が、角川文庫版『椿姫』には色々と記載されているので、興味のある方には是非オススメしたい一冊だ。

 

 スマホ検索で偶々目にした『ヴェルディ≪椿姫≫』のおかげで、思いがけず昔を振り返ったり、原作の世界に触れたり、そして何より面白い演出で『椿姫』を見られて、とても楽しい時間を過ごせた。また他の演出の歌劇『椿姫』も是非機会があれば見てみたい。

 そして、「ふらみんごさん」、、ではなくって、プラシド・ドミンゴ出演の『トラヴィアータ1985・椿姫』も、またいつか、もう一度見れたらいいなあ、と思っている。

 当時、小さい私に、この映画を見る機会を与えてくれた母にも改めて感謝をしたい。

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*1:Alexandre Dumas fils(1824-1895)

*2:1843年、原題はLa Dame aux camélias

*3:Addio, del passato - from La Traviata, Act 3

*4:1860年、La Musique aux Tuileries

*5:原題は、La traviata

*6:トゥナイト(キリ・テ・カナワ究極のベスト) キリ・テ・カナワ『トゥナイト~究極のベスト~』

*7:演じるのは、トーマス・ハンプソン

*8:ヴィリー・デッカー演出。

*9:椿姫 (角川文庫) デュマ・フィス著、西永良成・訳

*10:courtisane(仏)高級娼婦のこと。

*11:Alexandre Dumas(1802-1870)

*12:Antoine-Francois Prévost d'Exiles, dit l'abbé Prévost(1697-1763)

*13:1731年、原題はHistoire du Chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut